飴屋法水『ブルーシート』@豊島区 旧第十学校グラウンド

岸田賞を取った後に、戯曲を購入して、観たかった作品である。
すると、どうやらF/Tで再演するらしいという話を聞いて、すぐに予約した。
確かに楽しみではあった。だが、同時に不安でもあった。この作品はあの時あの瞬間にあの場所で上演されてこそ意味があったのではないか。今、この作品を見て楽しめるのだろうかと。

結果として、この作品は決してとても面白い作品ではなかった。
しかし、とても良い作品であった。


演劇というのは非常に曖昧な表現手段である。
その曖昧さは主に役者という存在が影響しているのではないかと思う。
例えば、劇空間で役者は、役者であるが、同時に、他の誰かでもある。
彼が話した言葉は役者の言葉であるが、同時に誰かの言葉であり、作者の言葉でもある。
劇空間は現実ではあるが、虚構でもある。

そんな曖昧な、矛盾を含んだ演劇であるが、日常に立ち返って考えると、演劇だけの話ではないと気づく。
私達はかなりの事を曖昧にしながら暮らしている。
そして、あの大きな震災はその曖昧さを公然の下に晒した。

そう考えると、震災と演劇は少し似ているのかもなと思う。

僕が観た『ブルーシート』は、その曖昧さを見せ付けた後の話だった。


戯曲で読んだ『ブルーシート』はこんな感じだ。

生と死、生者と死者、人間と動物、加害者と被害者、被災者と非被災者、当事者と非当事者、飴屋法水と高校生、覚えている事と忘れる事。

全てが同時に存在し、選べないまま世界は進んでいく。停滞していく。

しかし、選ばないという選択も選択の一つであり、いつの間にかどちらに振り分けられている。

ならば、少しでも己が良いと思う選択をしていく事こそが私たちにできる事なのではないか。

曖昧であるという事は同時に選べる事、自由である事なのだから。


そして、あれから4年経った。

それが今回の『ブルーシート』のお話である。

あの時起こった事は変わらないし、あの時思った事も変わらない。

しかし、あの時と今とは決して無縁ではない。

あの時、高校三年生だった彼らは今年二十歳だ。
東京に来ている人もいるし、来ていない人もいる。
大学に行った人もいるし、行っていない人もいる。
結婚している人もいるし、していない人もいる。
高校に入学した人もいるし、死んでしまった人もいる。

私達はその事を忘れても良いが、覚えていても良い。
死んでも良いが、生きていても良い。

でも、覚えている方が、生きている方が良いんじゃないのかなぁ、と思うならそうしたほうがいいのだし、思わないならそうしなくても良い。

でも僕は覚えていて欲しいし、生きていて欲しいなと思う。

そんな感じでした。
やっぱり、こういう作品の事について書くとポエティックになりますね。
ちょっと恥ずかしいです。
おわり。