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岩井秀人×快快『再生』@KAAT大スタジオ

公演が終わったので、感想を書く。
 

多田淳之介(東京デスロック)×岩井秀人)(ハイバイ)×快快と、小劇場界で熱い面々が集まっていて、観に行かざるを得なかった。

 
KAAT裏の味奈登庵富士山盛りを食べて、腹が一杯で死にそうになりながら、入場した。
 
舞台三面を観客席が囲み、階段状になっているため、後ろの方に座ると見下ろす形になる。
僕は正面最前列に座った。
 
さて、感想であるけれども、僕が関東に出てきて観たお芝居の中で一番面白かった。
なぜ、面白かったのか少し書いていこうと思う。
 
『再生』は20分ほどの短いパフォーマンスが3回繰り返されるという構造になっている。
そのパフォーマンスは音楽とシンクロした動きや叫びである。
 
僕は、そこで、描かれたのは演劇の虚構性からの超越だと感じた。
 
まず、わかりやすい点では衣装の過剰なまでの奇抜さが挙げられるだろう。
そのデザイン、色彩は簡単に言ってしまうのならば非常に派手である。
そのインパクトは、席に座る私たちを一歩引かせた、「観客」にさせる。
 
次に、演技の演技性の強調も挙げられる。
パフォーマンスは1回目に観た時は余りに乱雑としていて、適当にふざけているだけのように見える。
だが、そのカオスが目の前で何度も演じられることで、観客はそれが全て演技であったことがわかり、驚きを覚える。
そして、背後でかけられていた音楽が止まり、現前に演技そのものが投げ出された時、観客は役者の、恐らくほとんど執拗とも言える訓練によって、再現を可能化した演技に驚愕し、恐れさえ覚えるのだ。
そして、それは、目の前で行われているのが、まごう事なき虚構である事を理解するのである。
 
しかし、そこまでのお膳立てをされてなお、役者は完璧なる虚構を作り上げる事ができないし、観客は虚構として鑑賞する事はできない。
なぜなら、役者も観客も、機械ではなく、血液の通った。「人間」であるからだ。
 
どれだけ、再現可能な演技を会得したとしても、役者が人間である以上、そして、演劇というものがそもそも、再現不可能なものである以上、そこにはある種のノイズが生じる。
なぜ再現不可能かと言えば、僕達はひたすら流れて行く時間の中に過ごしており、二度と同じ瞬間に立ち返る事ができないからである。
 
そして、その生じたノイズは、虚構性が過剰なまでに高められているからこそ、観客は水をかけられたように、現実に引きずり戻され、目の前で行われているのは私達の世界の延長線上に存在する、演劇という行為であるという事に気づくのである。
 
この作品はこれまでに盛んに叫ばれた演劇批判への応答であり、現在における演劇の新たなる位置付けである。
そして、驚くべき事に、どこかで見た事のあるような、枯れた技術の組み合わせによって、その舞台は作り上げられている。
そして、それは行われて、僕はそれを鑑賞してしまった。
 
ポストドラマという概念はこの地獄のような演劇によって、一度終わったように感じる。
そして、僕たちに求められるのは、ある種の演劇的な「死」からの「再生」なのではないかと思う。